不足のありがたさ

・私が生まれたのは昭和50年だ。

ある漫画家は、昭和50年代を、食べることに困ることのない裕福さを達成したが、幸せとは
言えない空気感が漂っているようなことを述べていた。

その言葉を聞いて、確かにそうだなと感じた。

洗濯機やカラーテレビ、冷蔵庫など確かに小さい頃から当たり前に存在した。

学校は鉄筋の綺麗な小学校だった。

なのに、私は、幸せだとは思っていなかった。

むしろ不幸だと思っていた。

生まれてから元々あるものは、あって当たり前の物であり、存在することに

感動や感謝は生まれない。

歌手の尾崎豊が「卒業」の中で、学校を「支配」と歌ったのには衝撃をうけた。

正直、私は、「支配」とまでは思っていなかったが、この歌は、同世代の人々の心をとらえたの

は事実である。

私は、中学生になってから学校は「面白くない」とは薄々、感じてはいた。

ある意味、教育とは強制的な洗脳である。

義務教育なのだから、行かないといけない。

行かなければ、人生のはずれものになってしまう。

だから、本当は楽しくなくて学校の詰め込み式の教育に違和感を感じても頑張って学校に行っていた。

学校とは本来、学ぶことの楽しさや有難さ、友人との交流などを通して成長していける場である。

しかし、今、学生時代を思い返しても、そのような気持ちはなかった。

先生たちが、自分の思い通りに生徒をコントロールしようとする姿勢に

なんともいえない怒りや反発を感じたものだ。

昭和50年代に生まれた私は、学校に行けなかったり、十分に勉強できなかった時代を知らない。

洗濯機やテレビ、冷蔵庫が、なかった時代を知らない。

むしろ、もっと豊かになるはずだと思っている。

そのことが、私の心を貧しくしたことは間違いないように思う。

不足とはとても貴重な経験なのかもしれない。

不足を感じることの大切さ。

不足があってこそ、充足したときのありがたさと感動は味わえる。

あー、神さま、私が、今ままで経験した多くの不足に感謝します。

不足こそが私のこころに感謝の気持ちを育ててくれたのです。


あー神を賛美します。