放蕩息子の兄

今日は、聖書に出てくる放蕩息子の話が頭に浮かんだ。

二人の兄弟がいた。

父親は、二人に財産を分け与えた。

弟は、財産を使いはたしてどん底を味わう生活まで落ちてしまう。

兄は家で父親と一緒に真面目に家族を守っていた。

弟は、心から反省して父親に謝り、使用人として使ってほしいと願う。

すると父親は、無償の愛で弟を許し、喜びの宴会を催した。

しかし、今まで、真面目にやってきた弟は良い気持ちがしなかった。

自分は今まで、真面目に父親に尽してきたのに、なぜ、あんな自分勝手な弟の為に、

宴会までするのか?正直、不満であった。

すると父親は、この子は死んでいたのに生き返った、これほどの喜びがあろうか?と述べた。

という話である。

最近は、仕事場で嫌な人がいるが、その人が放蕩息子で、自分が兄のような気持ちになっている。

この話を聞いたとき、この兄は心の狭い人物だと思った。

しかし、現在は、この兄の気持ちがよくわかるような気がする。

自分より明らかに努力していないと思う人が、自分よりも大きな祝福をうけていたら、

嫉妬してしまう気持ちは、共感できる。

その努力が長く、大きければ、なおさらだ。

神の愛は、無償であり、どの人にも分け隔てなく与えられる。

兄の意識から父親の意識にシフトして嫌いな人を祝福して
いきたい。

あー、神様、大切な気づきをありがとうございます。