聖書を読んでいると
姦淫について
何度も、怒っているのだ。
あまりに多く出てくるので、
聖書の神が
姦淫や他の神を拝むことを
望んでいないことは、
どうも
間違いないような気がしてきた。
それが
神の御心なのであろう。
ときに、人間の思いと
神の御心は同じではない。
人間的な思いからみると
あまりに理不尽に
厳しく感じる。
もっと
おおらかでもよいのではないか?
と思ってしまう。
神を愛するとは、
神の思いを忖度し
その心を実施していく
ことなのだろう。
あー、私は、未熟なのだ。
感謝します。